江州音頭と
真鍮家文好一門の歴史
江州音頭の歴史と真鍮家文好一門の歴史
発祥の地八日市・豊郷町
〜八日市〜
文政12年頃(江戸時代末期)八日市市場に出入りしていた武蔵國(現在の埼玉県)から来た芸人の桜川雛山が山伏姿で歌祭文を広め流行になりました。
その雛山の教えを受けた板前で歌好きの歌寅と呼ばれていた寅吉(西澤寅吉)が雛山から習った歌祭文に当時流行していた念仏踊り・歌念仏などを取り入れて『江州八日市祭文音頭』を作り上げました。これが現在の江州音頭の始まりと言われています。
西澤寅吉がその道に入ったのは19歳頃で、それから40年ほど後の明治初年、八日市祭文音頭の完成をもって芸名に「桜川」をもらい「初代桜川大龍」と名乗るようになります。
この八日市祭文音頭の完成させるにあたり、その後の初代真鍮家好延となる奥村九左ヱ門(天保10(1843)年生まれ)、大龍と二人の協力によって八日市祭文音頭が出来上がったと言われています。稼業が真鍮鋳物細工家の奥村九左ヱ門は、稼業の屋号を芸名に初代真鍮家好文と名乗るようになりました。※真鍮家三代目に好延・後の初代文好の聞き取り記録が以下のように残されています。
『江州音頭の元祖は歌寅で、それを助け今のものにしたのは真鍮家初代の好文である。言い伝えによると歌寅が大名の料理番をしていて、その歌の上手なのが認められ、無礼講の時、その大名のお気に入りになって、歌寅という名を与えられた。その大名は誰かと聞いたが、それは分かりませんとの事であった。その後、郷里の八日市に帰って盆踊りにその歌が合わぬものかと工夫していた』
『盆踊りに合うか合わぬか工夫していたが、真鍮家の初代好文さんに語らせて、盆踊りに合う音曲を大成した。それで一時、江州八日市祭文音頭といった。次に八日市音頭、そして今では江州音頭で通用するようになった』(この聞き取りは、昭和27年発行の滋賀県八日市町史の研究の編纂過程で行われました)
桜川は多くの枝葉に分かれ最も良く知られている流派として受け継がれ有名で、愛好家でも名乗られる方が沢山いらっしゃいます。
真鍮家は現在まで暖簾分けなどは行なわず現在20数名の門下生がおります。
〜豊郷町〜
中山道沿いに佇む永源寺派の寺千樹寺は元は行基により奈良時代に創建、江州四十九院の一つでした。比叡山延暦寺に属し日吉山王社を祀り日吉山千樹寺と称して「日枝の荘・千枝の里」と呼ばれていました。寺は中世以来たびたび焼失しその都度に近在の人の努力により再建が進められました。その落慶供養の余興の中で「江州音頭」の原形ができ上がります。
永録元亀の頃には織田信長と観音寺城主、佐々木義賢父子・天台宗派との内紛で千樹寺も戦火にあい(天正十四年 1586)当地の藤野太郎右ェ門が浄財を投じて再建し、その落慶供養の余興として当時の住職根誉上人が境内に人形を多数並べ、参拝の老若男女を集めて手踊りをし、自ら「ぎゃーてい ぎゃーてい はらぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼうちそわか」等の経文の一部をおもしろく繰返しては音頭の調子をとって円陣をつくり手ぶり足ぶみ踊ると見物人が我も我もと参加し、ついに夜のふけるのも忘れて踊りあかしたといわれています。
それ以来、この行事は毎年7月17日(旧暦)に続けられるも天明年間にも村の大火でまたもや焼失。時に北前船で活躍した近江商人の又十・藤野四郎兵衛が亡き父の意思を継いで再建せれ弘化三年(1846)7月17日、古例により遷仏供養が行われました。
その際八日市に「歌寅」という祭文作りの名人を私邸に招き、経文祭文をとりいれた一般民衆向きの音頭を作らせ、それに節をつけてさらに絵日傘や扇を与えるなど工夫を凝らして躍らせ発展。当日集まった人々は”踊らにゃ損”と音頭にのって踊るようになったと言われています。現在豊郷町では「豊郷町江州音頭保存会」が現在まで大切に受け継がれています。祭りなど各種催しや音頭の際に傘踊りを披露されています。
〜武蔵国(埼玉県)〜
武蔵國(現在の埼玉県)から来た芸人の桜川雛山が山伏姿で歌祭文を広め流行になり、文政12年頃(江戸時代末期)八日市市場に出入りしていた板前で歌好きの歌寅と呼ばれていた寅吉(西澤寅吉)が雛山から習った歌祭文に当時流行していた念仏踊り・歌念仏などを取り入れて『江州八日市祭文音頭』を作り上げたことが始まりと伝承されています。
是非お祭りで江州音頭が聞こえて来たら歴史浪漫に身を馳せて、
一緒に踊りの輪に入って見ませんか。